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January 10, 2006
デジタルとアナログ
デジタルカメラの解像度や操作性などの機能が格段に進歩した昨今、印刷媒体の制作現場の多くでこれが使われている。フィルムを印刷に変換する段階で画像劣化する率を考えれば、感材費がゼロに近くポストプロダクションに有利なデジタルデータに傾くのは自明の理だ。その流れに対して「アナログの写りはやはりひと味違う」との発言が聞かれるが、それは当リ前を言ってるだけで新しいテクノロジーが出現した際に感じる不安とノスタルジーが動機だ。アナログ画像とデジタル画像のアウトプットの住み分けを自分なりに明解にすれば道具に振り回される事もない。写真と絵画の比較が機能と表現の上で無意味なようにアナログとデジタルでは表現領域が異なる。その違いはカメラマンという在り方にさえ影響を及ぼす。カメラ本体とファイヤーワイヤーで接続されたPC画面を覗き込むADやクライアントが「うん、いいんじゃない」などとジャッジめいた言葉を放つ。聞きようによっては失礼な話だが、ファインダーを覗き込む権利が写真家ひとりだけであった時代は過ぎ去った。映画界ではディレクション・オブ・フォトグラフィー(撮影監督(略:DP))と呼ばれる役割が、ただファインダーを覗き込むことのみの無意味さから脱却しモニターの前でアングルや照明、オペレーションのリーダーシップを執っている。ビジュアリストの目的とは手作業の実行そのものにあるのではなく「イメージの顕在化」にあることを物語っている。デジカメやMACの進歩と普及によってデジタル作業は極めて身近でスピーディーなものになった。それは多数の人間に表現手段が開かれたことを意味し、結果、今日の印刷媒体にとって「概念と署名」の重要性に至る。平たく言えば「誰が何を考えてつくったか」という事が重視される世界だ。ダダイズム以降現代アートに共通する「作業の表層化と空洞化」が商業的な撮影現場にも今ほど劇的に普及した例はない。デジタルが理由だ。極端には自分が組んだプランの撮影現場でスタッフみんなにデジカメを持たせて、よーいドンで撮影し、良いデータを選び出してカメラマンの仕事として署名、ということもコンセプチュアルな立場では成立する。事実スティーブン・マイゼルも実行しており、古くはルネサンスの絵画工房のアシスタントシステムもそれに近い。いつの時代も作品化を裏付けているものは科学と技術と経済であり、それが高いほど必要とされるのは理性と感覚を支配する頭脳だ。一方デジタル表現の限界も当然ある。ここまで書いたことは人間が<割り切りのつく感覚>の範囲の中で「素晴らしい!」と言える表現についてであって、<割り切りのつかない感覚世界>に訴えかけるものにとって手作業性は断然無視できない。どころか手作業性は重要な意味を持って来る。そのプロセスと結果には自然の内包する力と似た魂が宿るからだ。だからこそデジタルの普及によって芸術性が浮き立つものは逆説的にアナログな所産と言えはしまいか。デジタルでさえ作業性はアナログ極まりない。例えればCG作業のハイコストの所以はそこにある。デジタルもアナログも筆に過ぎない。プロセスは絶えず人の手を介するものだ。アウトプットの違いを理解し適時に両方を使い分ければ永遠の談義を繰り返すことはない。
投稿者 isao tsuge : January 10, 2006 07:35 PM