不易流行についての抜粋

 

 

 

「不易流行」 http://www.azsa.or.jp/b_info/ps/agri/colum/agri_200301.html

 

不易とは時代を超えた不変の真理を、流行とは一時のはやりを意味し、その元は一つであるということを言っています。万葉の時代から無数の和歌、俳句などが詠まれ続けられる中で、それぞれの時代らしい発想や表現が生み出されつつも、和歌や俳句が持つその本質的なものは常に変わらない、というこの真理は、悠久の時間の積み重ねの上で得られた知恵であると思います。

 

芭蕉の高弟去来はこの言葉の意味を次のように説明しています。

去来曰、「此事弁じがたし。有増、人体に譬へていはむ。まず不易は無為の時、流行は坐臥・行往・屈伸・伏仰の形同じからず、一時の変風也。其姿は時に替るといえども、無為も事有も元は同じ人也。」(去来抄)

 

自然の観察の知恵を人体の観察の知恵で表現している点が興味深いところですが、自然も人体も一体という当時の哲学に基づいての説明と理解すべきだと思います。

 

 

不易流行の説 http://www.bashouan.com/psBashou_spc.htm

芭蕉の俳諧理論の根幹をなす「不易流行」の説は「おくのほそ道」の旅の体験を通して更に成熟し、芭蕉は、旅を終えた後の元禄2年(1689年)12月、去来に初めてこの新俳論を直伝した。

奥州行脚の前はままあり。この行脚の内に工夫し給ふと見えたり。行脚の内にも、あなむざんやな甲の下のきりぎりす、といふ句あり。後に、あなの二字を捨てらる。是のみにあらず、異体の句どもはぶき捨て給ふ多し。この年の冬、初めて不易流行の教を説き給へり(去来抄)

マンネリからの脱却を目指し、俳諧に新しみを取り入れることを提唱した「不易流行」については、師説を書き留めた「聞書七日草」(呂丸)、「山中問答」(北枝)、「去来抄」、「三冊子」(土芳)などの門弟の書にその概念を読み取ることができる。

去来は、「贈晋子其角書」や「去来抄」の中で、蕉門俳諧に千歳不易(不変)と一時流行(変化)という対立する内容の教えがあるが、「風雅の誠」をよりどころとする点においてその根本は一つであり、「不易の句をしらざれば本たちがたく、流行の句をまなびざれば風あらたまず」と教えの本質を説き、土芳は「三冊子」の中で「千変万化する物は自然の理也。変化にうつらざれば、風あらたまず。」と書いて、自然界で万物が常に変化すると同様、俳諧も流行し、新しみを取り入れなければ俳風は改まらないことを説いている。

 

 

禅と詩歌-松尾芭蕉 「不易流行」

 

 

 芭蕉庵の近くに臨川庵という寺があり、そこにいた仏頂和尚(常陸鹿島の根本寺の住職)について、芭蕉は坐禅を始め、悟道の印可を得たという。

 芭蕉は俳諧の理念をよく「不易流行」(ふえきりゅうこう)として説いた。研究者は、次のように解釈されている。

       .      「不易とは永遠不変であることであり、流行とはその時々に応じて変化することである。しかし芭蕉は、芸術というものは一見相反するかに見えるこの二契機の二重奏的合奏においてのみ、真に永遠たりうるものだ、と考えるに至ったのである。」(『松尾芭蕉』 桜楓社 136頁)

       .      「芭蕉は、俳諧に、その俳諧性(「新しみ」を大きな要素とする)を保持したままで、和歌的な質の高い文学世界を獲得してみようという、前人未到の果敢な試みを実行しつつあったのである。その芭蕉にとって、「不易流行」はそのような方向を、最も的確に表現し得る言葉であったのであろう。それゆえ、不易流行を和歌性、流行を俳諧性と把握しても間違いないと思う。一句が和歌性と俳諧性の二つながらを獲得し得ている場合、それは理想的な作品ということになるのである。」(復本一郎氏『芭蕉俳句16のキーワード』日本放送出版協会 九十八頁)

 芭蕉は、おくのほそ道の旅の途中、羽黒山の麓で呂丸に、また山中温泉で北枝に初めて不易流行を語った。その年、去来にも語った。

 

 「此年(元禄二年)の冬、はじめて不易流行の教えを説たまえり。魯町いわく、不易流行の事は古説にや、先師の発明にや。去来いわく、不易・流行は万事に渡るなり。しかれども、俳諧の先達これをいふ人なし。宗因師一度そのこりかたまるを打破り、新風を天下に流行しはべれども、いまだこの教えなし。しかりしよりこのかた、都鄙(とい)の宗匠達古風を用ず、一旦流々を起せりといへども、又その風を長くおのが物として、時々変ずべき道をしらず。先師はじめて俳諧の本体を見つけ、不易の句を立、また風は変ある事をしり、流行の句変ある事を分ち教えたまふ。」(『去来抄』)

 

 「俳諧の本体」と「風は変ある事」という、不変の本体と流行の風あることを説いた。

 

 「魯町いわく、不易流行その元一なりとはいかに。去来いわく、此事弁じがたし。あらまし人体にたとへていはば、不易は無為の時、流行は坐臥・行住・屈伸・伏仰の形同じからざるが如し。一時一時の変風これなり。その姿は時に替るといへども、無為も有為も、もとは同じ人なり。」(『去来抄』)

 

 「不易流行]は『荘子』の言葉といわれているが、芭蕉は、それを禅的に解釈しなおしている。「不易」は「無為」の時というが、それは、坐禅ではない。流行は「坐臥」とあって、坐は、流行にあるからである。根源的な絶対、平等、無であろう。「流行」は相対、差別、有である。この二つは、別ではない。同じ人である。

 芭蕉が不易流行の句として、「古池や」の外、次の二句をあげて、「此三句は、いづれも甲乙なき万代不易、第一景曲玄妙の三句なり」と語った。(木導『水の音』の序文)

 

 以下<  >は、復本一郎氏『芭蕉俳句16のキーワード』の解釈。その後が、私の解釈である。

 

       .      小松生ひなでしこ咲るいわほかな  

守武<巌には小さな松がはえているのみか、撫子までも咲いている。その風情のよさ>

       .      春風や麦の中行(ゆく)水の音    

木導<春風吹き、麦はそよぐ。そして麦畑の中、小川のせせらぎが聞こえる>

 芭蕉は、木導の「春風や」の句を「景曲第一の句」と称賛し、こう言った。

 

 「景気の句世間容易にする、もっての外の事なり。大事の物なり。(中略)

惣別(そうべつ)、景気の句は皆ふるし。一句の曲なくては成がたき故、つよくいましめおきたるなり。」(許六『宇陀法師』)

 

<ただ景色を詠んだだけの句を、皆簡単に作ってしまうが、論外のことだ。大体において、景色を詠んだ句は、古い。一句に曲というものがなくては「新しみ」のある句として成り立たないので、昔から注意を促されているのだ>

 

 これら三句が不易流行の句だとすると、仏教と同様の真実が詠みこまれているわけである。「巌」は、生きていない場所。不生の場所。「小松生」生あるとは思えないところ(不生)に、松やなでしこが生み出される。巌は「自己」、不生の自己。盤珪は特に、その語のみで指導した。原始仏教では、解脱すると「生が尽きた」という自覚になるという。自己から生み出される松、なでしこ。創造的な人間の本質を詠んだ。

「春風や」麦畑の中を行くのは作者、のはずなのに、「水の音」。風、水音とひとつになって畑中を行く。身心、自己を脱落したものがゆく。自我を忘れて、自然とひとつ、自他一如、の境涯を詠んでいるので、自然を詠みながらも、人間の本質を詠んだ不易流行の句だというのであろう。

不易流行の心は禅

 「不易流行]は『荘子』の言葉といわれている。芭蕉は表面的には禅を出さないが、芭蕉は禅の印可を得ているので、『荘子』も、中国の思想そのままではなく、禅的に定義しなおすであろう。禅では、「物我一如」「絶対即相対」「平等即差別」である。個々の物は、差別あるもの、相対のものと思われているが、実は絶対、平等なる本来の自己の姿である。俳諧は、絶対平等なる生命の躍動を、相対的な言葉で現すのだというのが芭蕉の趣旨であろう。すなわち、俳諧は観念やただの風物、静寂を詠んだものではだめだ、眼前の事実、それは人間の真実、それを詠んだものでなければならない、というのが芭蕉の説であると思う。

 以上に関連する類似の言葉をあげる。以下<  >は復本一郎氏の解釈(『俳人名言集』)

       .      「事は鄙俗の上に及ぶとも、懐(なつ)かしくいひとるべし。」(『去来抄』)<鄙俗性と文芸性を兼ね備えたもの>

       .      「俳諧、和歌の道なれば、とかく直成(すぐな)る様にいたし候へ。」(『杉風書簡』)<理でなく、直ぐ。芭蕉は和歌寄り。>

       .      「俳諧自由の上に、ただ尋常の気色(けしき)を作せんは、手柄なかるべし。」(『去来抄』)<和歌と同じ情趣や、事象を詠むことではないのである。あくまでも、和歌とは別種の、俳諧の独自性がなければならない。>

題材など自由に使うが、本来の姿を句に作る。

       .      「見る処(ところ)花にあらずといふ事なし、おもふ所月にあらずといふ事なし。」(『笈の小文』)<和歌で読むことを避けていた対象、心情も俳諧は詠む。そこに「花」「月」(すなわち和歌の世界)と同質の美を発見>

       .      「世道・俳道、これまた斉物(せいもつ)にして、二つなき処にてござ候。」(『虚水宛書簡』)<俗世間を生きる道と俳諧の道とは一つである。

特別の場所だけで俳諧があるのではなく、どこでも俳諧の世界である。以上の二つは、すべての生活が、自己の本質上のことという禅と同じと思われる。

       .      「高くこころをさとりて俗に帰るべし。」(『あかぞうし』)こころの真相を悟る、それは俗世のどこにでもあることがわかったので、俗世にあって、こころの真相にもとづいて俳諧の道を行けという。

格に入りて格を出る

 「格に入りて格を出る」という。

 

 「格に入りて格を出ざる時は狭く、また格に入ざる時は邪路にはしる。格に入り、格を出てはじめて自在を得べし。」(『俳諧一葉集』)

 

<格は基本。基本の段階で止まってもいけない、基本を無視すれば、でたらめ。基本をマスターし、基本を抜けだしてオリジナリティを発揮する。>

 

 まず、指導者の指導で基本を学び、そして、いつか、その基本をふまえて、そこから超えでていく。仏道も同じである。似た言葉を味わう。

 

 蕪村に次の言葉がある。

 

 『俳諧は俗語を用いて俗を離るるを尚(たっと)ぶ。俗を離れて俗を用ゆ、離俗の法、最もかたし。』(蕪村 『春泥句集』)

 

 俗語を用いて、俗を離れて、深い人間の真相にせまるのは難しいことであろうが、それが俳諧だという。

 道元禅師に次の言葉がある。他(世界、自然、もの)が、自己である。自他一如である。自は、自我ではなく、根源的な自己である。もちろん、この「我」「心」は実体ではなく、認識的、作用的である。

 

 「我を配列しおきて塵(尽)界とせり。我を配列して我これを見るなり。」(『有時』)

「心みなこれ衆生なり、衆生みなこれ有仏性なり。草木国土これ心なり、心なるがゆえに衆生なり、衆生なるがゆえに有仏性なり。日月星辰これ心なり、心なるがゆえに衆生なり、衆生なるがゆえに有仏性なり。」(『仏性』)

 

 芭蕉が、元禄三年(四十七歳)に、牧童あてにあてた書簡でこういう。

 

 「世間ともにふるび候により少々愚案工夫これあり候て心を尽くし申し候。」

 (われら一門の俳諧も、はや古びましたので少々工夫するところあって、心を尽くしました。)

虚と実

 芭蕉は、「虚と実」もいう。いつも、同じ意味で使うとは限らないであろう。

『聞書七日草』

 元禄二年(四十六歳)『おくのほそ道』の旅で出羽の呂丸に語る。

 

 「花を見る、鳥を聞く、たとへ一句にむすびかね候とても、その心づかひ、その心ち、これまた天地流行のはいかいにておもひ邪(よこしま)なき物なり。しかもうち得ていふ人にいはば、この心とこしなへにたのしみ、南去北来、仁道の旅人となりて、起居言動に身治まるを、虚に居て実に遊ぶとも、虚に入りて実にいたるとも、うけたまはりはべる。」(『聞書七日草』)

 

 汚れた世俗に住みながら、そまらず人間の真実をよむ、俳諧に読めなくとも、身が治まるということか。身が治まる、とは、エゴイズムにまみれないことであろうか。

 

『山中問答』

 次は、おなじく金沢の北枝に語ったもの。この場合、虚、実は意味が違うようである。

 

 「虚に実あるを文章といひ、礼智といふ。虚に虚あるものは世にまれにして、又多かるべし。此の人をさして正風伝授の人とするとて、翁笑ひたまひき。私いはく、虚に虚なるものとは、儒に荘子、釈に達磨なるべし」(『山中問答』)

 

 解釈がむつかしいが、『二十五箇条』もあわせて読むと、こうなろうか。世俗にまみれながら、誠しやかにみせるのが文人、礼智。汚れた世俗に住みながら、おろかものとみられて生きる者はまれである、いや多いかもしれぬ。そういう人こそ誠を伝える人だと芭蕉は笑った。私は言った「虚に虚なるものとは、儒教の荘子、仏教の達磨でしょう」と。達磨は中国に禅を伝えた人、中国の禅の開祖。

『二十五箇条』

 次も、同じような芭蕉の言葉を伝える。

 

「虚実の事

 万物は虚に居て実に働く。実に居て虚に働くべからず。実は己を立て、人をうらむる所あり。たとえば花の散るを悲しみ、月のかたぶくを惜しむも、実に惜しむは連歌の実なり。虚におしむは俳諧の実なり。そもそも、詩歌、連俳といふ物は、上手に嘘をつく事なり。虚に実あるを文章と言ひ、実に虚あるを世智弁と言ひ、実に実あるを仁義礼智と言ふ。虚に虚ある者は世にまれにして、あるひは又多かるべし。此人をさして我家の伝授と言ふべし。」(『二十五箇条』)

 

 『二十五箇条』は、支考著。元禄七年六月落柿舎で去来に与えたという伝えもある。芭蕉の言葉を伝えている。

 「虚に虚ある者」を芭蕉は肯定している。これを禅者(達磨を代表として)であり、芭蕉の風としている。とすれば、「虚に虚ある者」という時の、前の「虚」は、無私、無心で、後の「虚」は、それを飾らず、表に見せないことか。「実は己を立て、人をうらむる所あり」というから、この「実」は、自我、虚飾、エゴイスティックな我執である。「虚に実ある」とは、飾る文字である。「実に虚あるを世智弁」とは、誠実を装いながら、誠実がない世俗である。「実に実あるを仁義礼智」とは、道徳レベルである。「虚に虚ある者」は、人目に隠れて見えないが無私、無心、無我の生き様であろう。世俗から見れば、愚か者、無力の者に見えるが、内心は、無私の人であろう。

 芭蕉が、こういうことをいうことは、エゴイズム、煩悩障、そして、虚栄なく飾らぬ生き方を問題にしていたのである。芭蕉も、仏教や禅の理屈の理解ではなくて、生き方を問題にしていたのである。仏教は思想の思惟、研究ではなくて、生活、生き様にある。

『笈の小文』

 「見る処花にあらずといふ事なし。おもふ所月にあらずといふ事なし。像花(かたち)にあらざる時は夷狄(いてき)にひとし。心花にあらざる時は鳥獣に類す。夷狄を出、鳥獣を離れて、造化にしたがひ、造化にかへれとなり。」『笈の小文』(元禄三年ころ成る)

 

 見るもの、思うものすべて花であり、月である、という。花、月とは自己のたとえであろう。すべてが自己の世界、自己の光明という禅の自覚に通じる。そういう風に見られないのは獣に等しい。自我の目で汚してみないで、自己を超えた天然に従い、天然に帰れ。ここでも、エゴイズムを離れることを問題にしている。理屈の理解ではなくて現実にエゴイズムを離れて、誠実に生きることが、芭蕉の生き方である。芭蕉の俳句には、禅や仏教が根底にある。

『夜話狂』

 「実に居て虚をいふべからず。虚に居て実をいふべし。その人は虚実自在の人なり。」『夜話狂』(支考、宇中編)

 

 この場合の「実」「虚」は、意味が違う。本来仏の身でありながら、けがすな、世俗に住みながら誠を言え。そのような人が虚実をわきまえ自在に生きる人だ。

芭蕉と良寛

 芭蕉は、「本来の自己」すなわち、人間の本質、こころ、いのちの躍動を、言葉の裏に、底に秘めた句を数多く作る。しかし、芭蕉は、それを禅とはいわず、「不易流行」という言葉で言った。芭蕉の秘めた真意を当時わかるものがいようが、いまいが、門人たちがあれこれ言っても、他の人が非難しても、芭蕉は、その秘密をあかさなかった。後世の、わかる者を意識したとしか思えない。芭蕉に次の言葉があるのはこれを言うのであろう。

 

 「俳諧に古人なし。ただ後世の人を恐る。」(不玉宛ての去来論書)

 

 芭蕉は当時の談林風の俳諧から完全に脱皮した。しかも、芭蕉の俳句は、単に自然をうたう他の人の俳句とも違っていた。言葉の遊びではなく、単なる旅や自然を詠んだのではなく、人間をよんだ詩となった。芭蕉の句は、表面は全く、仏法、禅らしい匂いがないのに、実はまさに、禅である。この見事さに、良寛は気づいて、芭蕉を最高度に絶賛する。良寛に次の詩がある。

 

  この翁以前この翁無く

  この翁以後この翁無し

  芭蕉翁 芭蕉翁

  人をして千古の翁を仰がしむ

 

 芭蕉について現代のような文芸論があったわけではないのに、良寛は、芭蕉を理解し絶賛したのである。禅者同志、理解しえたのであろう。

 のち、芭蕉は、死ぬすぐ前に「この道や行く人なしに秋の暮れ」という句をよんだ。門人は多くいたが、芭蕉と同じ道をいく人は少ない、というさびしさが感じられる。自己の生命を洞察する確かな目と、俳諧のわざとをともに備えて行く人はなく、我が生命尽きようとする秋になった。良寛も、曹洞宗教団には真実の仏法を伝える僧侶がいないと失望し、教団から離れて、教団を厳しく批判し、わかりあえる人のいない悲しみを漢詩にうたった。良寛も当時の宗門から全く見放されていた。後世の人のために、多くの漢詩などを残した。

 私たちも、五十年、百年も前に、同様のことを考えた人のいたことを今、知ることができる。我々も、今のエゴイズムにまみれた人に認められなくてよい。後世の眼ある人をおそれよう。どうせ、千年の後、現在の個人名は、すべて忘れさられる。

禅と芸術

 絵画でも文学でも音楽でも、芸術はすべて、言葉で伝えられない真実を表現するものでがある。小説や俳句のような文字を使う芸術でも、言葉を超えたものを表現しているものがあるとみるべきである。分析的でなく、直覚に訴える。そういう点で禅と芸術の関連がある。芸術家は創造者である。

 自分の心が自覚したもの、事実を、言葉や絵や音で表現する。仏教者、禅者は己(すべての人)が創造者であることを自覚し、それを日常の生活に表現する。自己生活化、および他者救済行である。芭蕉の俳句は言葉を使うが、言葉そのものを伝えるものではない。言葉の背後にある事実、人生の真理を伝えようとした。芭蕉がみつめたものは禅者と同じものであった。また、生き方がそうであった。

 そのような観点から、芭蕉の俳句の言葉の背後にある人間の真実を読み取ってみたい。

 

 

永久革命としての「不易流行」 あるいは芭蕉=マイルス

http://homepage2.nifty.com/Curious-G/starthp/subpage006.html

 

芭蕉はなぜ俳諧を選んだか。その答えを、とりあえず芭蕉の俳諧観に求めてみましょう。芭蕉という人は、たいへんな批評家でもあり、理論家でもありました。わびさびを俳諧のキーワードにしたのをはじめ、しおり、ほそみ、かるみ、もういろいろなことを言い出します。そのなかで、もっとも大事だと私が考えるのは、「不易流行」という言葉です。

私のあらっぽい理解で言いますと、不易とは、普遍的な、いつでも変わらない雅、美。流行とは、その場その場で変化し、流行り廃れていくもの。で、ここで、私は長年、ひとつの疑問を抱いていました。

何故、芭蕉は、明日にはどうなっているかもわからない「流行」をも追いかけなくてはならないのか。芸術家たるもの、追求するのは、永遠普遍の美、すなわち「不易」だけでよさそうなものです。となると、俳諧のマジック・ワードは、まさに「流行」の部分にあるのではないか。

私が思うに、芭蕉は、当時の和歌の状況を見ていたのではないでしょうか。定家、西行と簡単に言いますが、鎌倉時代の人です。四百五十年から五百年も前に死んでいる。それから尊敬に足る歌人の名前は、芭蕉からは挙げられません。和歌の歴史の膨大な蓄積は、その重みに耐え兼ねています。芭蕉は、「和歌優美」に対して、「俳句自由」と呼んでいます。これをあえて曲解すれば、「和歌不自由」といいたくなるような状況があったのではないでしょうか。

たとえば芭蕉は、それまで百句で巻くのが普通だった連句を、三十六句、いわゆる歌仙形式に縮めます。それによって、一晩で、しかも一句一句十分に時間をとって作句できるように改めたのです。これは非常に重要な改正で、ひとつには、時間の短縮により、何かと多忙な町人層など、多様な人々が座に加われるようになった。プロ野球ニュースに間に合うように、延長のルールを変えるようなものですね。そして、もうひとつは、作品としての連句の完成度向上を目指したことです。一句あたりの持ち時間も長くなりましたし、なおかつ、ゴールを意識しながら巻けるようになった。

ちょっと脱線して連句について触れますと、連句はジャズに似ています。互いの出方をうかがいながら、出番がまわってくると、おもいきりアドリブを展開していい。しかし、アンサンブルも重視され、リーダーは全体に目を配ってもいる。さっき、虚子をビートルズといいましたが、芭蕉は、常に時代を切り開いたジャズ・ミュージシャン、マイルス・デイビスに喩えられるかもしれません。

芭蕉の俳句理論に戻ります。それがいかに斬新で、自由なものであったか。芭蕉の一門においては、季語が重なることを避けません。うまく詠めていればそれでいいのです。それどころか、季語ですら、「恋や名所なども季語の役割を果たす」と絶対視しませんでした。切れ字にいたっては、「四十八字みな切れ字なり」と豪語しています。要するに「や」とか「かな」だけを切れ字だと思ってはいけない、使い方によっては、普通の言葉も切れ字になる、といっているのです。もちろん、ここには、芭蕉の、俳句テクニックに関する絶対の自信もあるのですが。

不易流行」の「流行」を、私の言葉で置き換えてみると、新しさ。それも素材や言い回しの新しさだけではありません。その素材を選ばせる、その言い回しを良しと捉えるものの見方の新しさ、思想の新しさ、ということになります。

世間では、俳句は年齢を重ねないとうまくならない、とか、いろいろといいますが、素人からすると、面白いのはある新しい理論、新しいアイディアが開発されて数年のうちで、すぐれた作品はその数年のうちにほぼ出尽くすように思えます。それからあとは「テニヲハの文芸」です。近代でいえば、最大の理論的発明は子規の写生でした。理論が正しいかどうかはどうでもいいのです。その理論が清新なものであれば、かならず新しい作品を生みます。

素人の暴言以外のなにものでもありませんが、私が思うに、俳句にとって大きな革新は三回起きました。その最初で最大のものが、芭蕉による「俳句(クール)の誕生」及びその発展です。次が子規による月並の否定と写生、および蕪村の発見です。では、もうひとつは何か。私の考えるところ、それは戦争でした。さきほど挙げた西東三鬼たちは、おびただしい戦争俳句をつくっています。それは季語とは関係なく俳句が成立してしまうことを決定的に実証しました。また、それは俳句にはじめて逃げようのない近代が侵入してきたことも意味しています。

 

西東三鬼 逆襲ノ女兵士ヲ狙ヒ撃テ! 機関銃低キ月輪コダマスル パラシウト天地ノ機銃フト黙ル

渡辺白泉 戦争が廊下の奥に立つていた 銃後という不思議な町を丘で見た 赤く青く黄いろく黒く戦死せり

富澤赤黄男 やがてランプに戦場のふかい闇がくるぞ 鶏頭のやうな手をあげ死んでゆけり

 

戦前から活躍し、句集なども出していた中村草田男などいわゆる人生探求派にも、直接間接の戦争の影響はとても大きいものがあります。あえていえば、彼らの人生探求のみちゆきは、戦争がなければその顔つきをまったく異なるものにしていたはずです。

 

中村草田男 いくさよあるな麦生(むぎふ)に金貨天(あま)降るとも浮浪児昼寝す「なんでもいいやい知らねいやい」 原爆忌いま地に接吻してはならぬ

加藤秋邨 鰯雲人に告ぐべきことならず 蟇(ひきがえる)誰かものいへ声かぎり 幾人をこの火鉢より送りけむ 死ねば野分生きてゐしかば争へり 雉子(きじ)の眸(め)のかうかうとして売られけり 天の川怒涛のごとし人の死へ

 

また、金子兜太に代表される戦後の前衛俳句、社会性俳句も、戦争という巨大なインパクトの子どもだということは、否定できない事実だと思います。

 

金子兜太 湾曲し火傷(かしょう)し爆心地のマラソン 黒い桜島折れた銃床海を走り 銀行員等朝より蛍光す烏賊のごとく

 

大脱線しました。こうして、思想の新しさ、それによって見出される主題の新しさ、言葉遣いの新しさ、美しいと感じる美意識の新しさを、芭蕉はとても重視している。それが「流行」ということだ、という話をしていたところでした。

慌てて言い添えますと、もちろん、高齢になって、あるいは句歴を重ねたのちに、名作が生まれることも多々あるでしょう。これは技術の向上もさることながら、人生が日々新しいからです。人生の新しさに直面したとき、新しい作品が生まれる。実は、このことも芭蕉はとてもよく分かっていたのではないか。

さきほど、芭蕉の旅について、人生と表現の一致、という観点からお話ししました。これを、別の角度からみると、芭蕉の旅は、新しい人生に出会うための旅、思想を新しくするための旅ともいえる。芭蕉は旅によって、自分と俳句をリニューアルし続けたのです。

 

春雨や蓬をのばす草の道 田一枚植て立去る柳かな 行くすゑは誰肌ふれむ紅の花 暑き日を海にいれたり最上川 荒海や佐渡によこたふ天河(あまのがは)

 

このあたりが、「おくのほそ道」期の俳句です。実は芭蕉の旅の俳句というのは、一句一句の背景は実に複雑で、実景とは関係なかったり、漢詩の風景をあてはめただけだったりするようですが、そうした詮索を超えた力を持った句だと思います。風景の大きさが印象的です。といったところで、次回は最終回。晩年の芭蕉ときたら、もうヤバいよ(今風)。